意識中くらい系ゆる社員

会社の使いこなし方を模索するゆるい会社員。会社を使い倒す話とゆるい生活のための知恵、雑談ネタ。

新型コロナワクチンの副反応で「頭皮の痛み」が…私はハゲてしまうのか



先日、新型コロナウイルス用ワクチン(武田/モデルナ製)を摂取した。

まだ1回目の摂取だ。


新型コロナウイルスのワクチンにはいろいろな副反応が観測されているという。

厚生労働省のHPによると、新型コロナワクチンの副反応として報告されているもののうち、1%以上の人に確認された症状として(ファイザー製または武田/モデルナ製ワクチン)、

摂取部位の痛み(通常は腕)、疲労、頭痛、筋肉痛、悪寒、関節痛、下痢、発熱、摂取部位の腫れ、吐気、嘔吐、リンパ節症、初赤・紅斑

が記されている。


しかし、私にはここに記載のない別の症状が現れた。

「頭皮の痛み」だ。

頭頂部から少し右のあたりの頭皮が痛い。

まるで髪の毛を常に引っ張られているような感覚だ。

髪の毛を少し触っただけでも頭皮が痛く、このまま円形脱毛のような状態になりそうな感覚だった。


新型コロナワクチン摂取後に髪の毛が大量に抜けた女性の話をネットで見た。

単なるデマだと思っていたが、実は本当だったのか?という不安がよぎった。

これから大量の脱毛が始まるのか?

これはハゲへの序曲なのか?


少し心配になったので周囲の人に聞いてみると、ファイザー製ワクチンを打った人も、武田/モデルナ製ワクチンを打った人も、この頭皮の痛みを感じている人はそれなりにいるようだ。

私の周りだけで考えると、どう考えても1%を遥かに超える人にこの症状が現れているのだが、なぜか厚生労働省HPの副反応の症状リストには記載がない。

他の人はこれを頭痛の一種として認識しているのだろうか。


私の場合、普段の頭痛では、頭全体がズキズキしたり、こめかみのあたりが痛くなったりする。

痛い場所は頭部の最表面ではなく、表面より少し内側だ。

目の疲労感や痛みを伴うことも多い。

しかし、今回はそういった種類の頭痛ではなく、髪の毛が抜けそうな頭皮の痛みだった。


頭皮の痛みを感じたという人も含めて、私の周りでワクチン摂取後にハゲた人は見たことない。

私自身もワクチン摂取からすでに10日ほどたったが、特に脱毛しているということはないのではないかと思う。(多分だけど…)

新型コロナワクチン摂取で頭皮が痛くなったという人もひとまずは安心してほしい。



博多ラーメン店のバリカタ同調圧力



時々、博多ラーメン店には"バリカタ"同調圧力が異様に強い店がある。

大抵の博多ラーメン店では、麺の硬さは柔らかい方から、バリやわ、やわ麺、普通、カタ麺、バリカタ、と選ぶことができ、バリカタを最も硬い麺の条件にしているようだ。(バリカタより硬い麺を出す店もあるらしい)

客の多くもバリカタを頼む。


私も最初に博多ラーメン店へ行ったときは、このバリカタを頼んだ。


某博多ラーメン店

店主「麺の硬さは?バリカタがオススメだよ!」

客A「バリカタで」

客B「バリカタで」

客C「バリカタで」

ワイ「じゃあワイもバリカタで」

店主「はいよ!☺️」

店主「はい、できた」

ワイ(早っ!さて食べるか。うっ…硬い。しかも麺がまだ小麦粉っぽい。…やっぱり柔らかいのにしておけば良かった)

ワイ(うっ、腹痛くなってきた…)


スープが美味しいので全体としては美味しいのだが、お腹が弱い私は半分生のような麺のせいで腹痛になった。

本来、私は柔らかい麺が好きなのだが、せっかく博多ラーメン店に来たのだからオススメを食べようという気持ちが出てきてバリカタを頼んでしまったのであった。

その後も何度か勧められてバリカタを食べたが、結局どの店でも私にとっては柔らかい麺を選んだ方が良いということに気づいた。


別の日

店主「バリカタがオススメだよ!」

客A「バリカタで」

客B「バリカタで」

客C「バリカタで」

ワイ「(同調圧力には屈しないぞ)バリやわで」

店主「はい?」

ワイ「バリやわでお願いします」

店主「バリカタじゃなくてバリやわ?」

ワイ「はい」

店主「うちは硬いのが人気だけどいいの?」

ワイ「(圧力には屈しない…)はい、バリやわでお願いします」

店主「バリやわは時間かかるんだけどいい?」

ワイ「(圧力には屈しない…)バリやわでお願いします」

店主「………はいよ😔」

ワイ(あれっ、他の人はもう来たのになかなか来ないな…)

店主「はい、できた」

ワイ(麺にスープがよくからんでうまい!やっぱり同調圧力に負けなくて良かった)


後から知ったが(考えたら当たり前のことだけど)、バリカタは茹で時間が短くて店主としては楽らしい。

逆にバリやわは一番面倒なはずだ。

こうなると店主が本当にバリカタを美味しいと思って勧めているのか、客が本当にバリカタを美味しいと思って注文しているのか、疑いたくなってくる。


店主「バリカタがオススメだよ」

客A「バリカタで」

客B「バリカタで」

客C「バリカタで」

店主「はいよ!!(……馬鹿が通ぶってバリカタなんか頼んでやがる。これでラーメン作るのが楽になるぜ😏)」※完全に私の想像です



ウォシュレットがないのになぜ外人は痔にならないのか



数日前まで海外出張へ行っていた。


海外のトイレにはだいたいウォシュレットがない。

しかも、トイレットペーパーがやたら硬い紙だったりする。

痔主にとってはよろしくない環境だ。

ホテルはまだマシなこともあるが、空港のトイレは結構辛かったりする。


とある欧米人と話していたら、日本のトイレが特別なんだ、と言っていた。

他にこんな国はどこにもない、と。


ここでふと疑問が湧いた。

外国の(現地の)人たちは常にそこで生活しているのに、なぜ大丈夫なのだろうか?

欧米人はよく体を鍛えているようだが、お尻も鍛えられているから硬い紙でも傷つかないのだろうか?


私は英語力が乏しいので、何か英語で話さないといけないときは、とりあえずめちゃくちゃな英語でも何でもいいから伝わればいいや、というスタンスで話している。

ただ、上の疑問を聞くにしても「痔」を意味する英単語すら分からない。

とりあえず何か言えば伝わるだろうと思い、

「Do you have a strong hole?」 (あなたは強い穴をお持ちなんですか?)

と聞いてみようかとも思ったが、ものすごい下ネタと勘違いされる気がして怖くなってやめた。

仲の良い友人か何かならまだしも、ビジネスパートナーに対して言うにはリスクが大きい。


結局直接は聞けなかったが、帰国してからネットで調べると、やはり外国人も痔にはなるらしい。

ただ、日本人と違ってすぐに病院へ行くので、あまり大事には至らないのだそうだ。

日本人は恥ずかしがって病院へ行かないので悪化しやすいとか。

確かに痔で病院へ行くのは少し勇気がいる。 (行ったことはあるが)

外国人は精神が強いんだろうか。


ちなみに「痔」は英語で「hemorrhoid」というらしい。



オードリー若林「父親が死んだ後の方が父と会話している気がする」

今週のお題「おとうさん」



このブログであまり湿っぽい話を書くつもりはなかったが、2年ほど前に私の父が亡くなったとき、同じ境遇の人のブログを読むことで多少気持ちが救われたことがあった。


なのでこの機会に私の話も少しだけ書いてみようと思う。



私は自分のことをもっと冷たい人間だと思っていた。


私と父は仲が悪くはなかったが、一般的に見れば「仲の良い親子」ではなかったはずだ。

会うのも年に1日〜2日程度。

私は常に親のことより自分のことを考えて過ごしていた。


遅かれ早かれ人はいつか必ず死ぬ。

もし父が死ねばもちろん私も悲しむだろう。

でも子供の頃と違って大人の今であれば、それを自然なこととして受け入れることができ、数日経てばいつもと変わらない日常を過ごせるだろう。

そう思っていた。

実際に自分の父の死に直面するまでは。


そんな考え方だったので、昔は友人のお父さんが亡くなったときもそこまで大きなこととして捉えていなかった。

テレビでいつまでも親の死を嘆いている芸能人がいれば、大袈裟なパフォーマンスをしていると感じて冷めた目で見ていた。

いつか親が死ぬのなんて当たり前だろ、と、極端に言えばそんな風に感じていた。


だが、それは親が死ぬということの衝撃を過小評価していただけだった。

父が亡くなった後、人前では極力泣かないように我慢したが、一人になると毎日のように泣き崩れていた。

そういう状態から脱出できたのは、父の死から半年以上経った後だったと思う。

こんなことは子供の頃でさえなかったことだ。



頻繁に会って話をするような仲の良い親子だったならともかく、稀にしか会わない親だったなら何故そんなに悲しむのか、と思う人もいるかもしれない。

これは私の場合の話だが、むしろ父との時間を多く過ごさなかったからこそ辛いのだと思う。

今思うと父は時々入院することがあった。

でも会いに行くといつも元気で、すぐに退院していた。

まだまだ先があると思っていたのに突然亡くなってしまったので、もっと話をしておけばよかった、もっと親孝行しておけばよかった、といった後悔が残ってしまうのだ。


私が実家に帰ると父はいつも喜んでくれた。

私は父から酷い仕打ちを受けたことも全くない。


ただ、ときどき所謂空気が読めていない発言をすることはあり、多少鬱陶しいところはあった。

私があまり実家に帰らなかったのはそのことも理由としてない訳ではなかったが、実際には父のせいでも母のせいでもない理由の方が大きかった。


進学に際して実家を出たときからしばらくの間、私は自分の人生が著しくうまくいっていないと感じていた。

殆ど引きこもっていた時期もある。


私が実家に帰れば両親は喜んでくれるが、それは自分たちの子供だからであって、私自身が素晴らしい人間だからではない。

仮にそのときは良かったとしても、先に死んでしまう親に一生頼ることなどできるわけがなく、いつか必ず一人で世に放り出される。

そのため、実家に帰ったときに自分の子として特別扱いされることで、かえって実世界での自分の価値の無さを意識することになった。

そういう私の個人的な内面の事情によって、実家にはたまにしか帰らなくなっていた。


また、大人になるまで育ててもらったにも関わらず、以前は父に対してほとんど感謝していなかった。

母親が専業主婦であった場合、だいたいの子供は母親の方に対してまず先に感謝するようになるのではないだろうか。

専業主婦やパート勤務などの母親であれば家にいる時間が長いので、家事をやってもらっている様子を頻繁に目にすることになる。

一方、私の父のように親が一日中外で働いていれば、その場面を子供が見ることはほぼない。


毎年「父の日」と「母の日」があるが、父の日はイマイチ軽んじられてしまっていることが多いと聞く。

私もそうだった。


でも自分が働く立場になると、一家の大黒柱の辛さが分かるようになる。


もし家族がいなければ、稼いだお金は自由に使える。

あるいは、家族がいなければ、自分が過ごせるだけのお金さえ稼げばいいので、仕事はパートでもなんでもいいし、自分が最も満足できるように人生設計すればいい。

しかし、家族、特に子供がいることで、ある程度以上の金額を稼がなくてはならない上に、稼いでもほとんどのお金を家族に持っていかれてしまったりする。

子供を食べさせた上、高校、大学と進学させるのは大変だ。

でもそれが辛くてもある程度やらざるをえない。

だからどんなに仕事が嫌でも簡単にはやめられない。

家族がいるせいで極限まで精神的に追い詰められている一家の大黒柱もたくさんいるんだろうと想像する。


父が入院してお見舞いに行ったある日、私が帰る直前に父はこう言った。

父「ぽんと(私の名前)はお父さん達が何も言わないのに昔から全部自分で考えて進学先も決めて、今はちゃんと稼ぐようになっててすごいねぇ。」

ワイ「お父さんが大学まで行かせてくれたからだよ。ありがとう。」

父「いや、ぽんとが頑張っただけでお父さんは何もしてないけどね」


このとき、私は泣きそうになった。

断っておくと、私は決してエリートでもないし、大金を稼いでもいない。

上記の言葉は父の過大評価だ。

高校生や大学生の頃、私は本当に将来のことを何も考えず、勉強も身を入れなかったし、仕事も別になんでもいい…というか、むしろ一生働きたくないと思っていた。

田舎の子供だった私はこの社会の現実を全く分かっていなかったのだ。

その割には一応まともな社会人になったことに父は多少驚いたのかもしれない。


しかし、社会の荒波に揉まれるようになると、やはりもっと昔から頑張っておけばよかったと後悔することがある。

そんなとき、父や母がもう少しこの世界の現実を教えて頑張らせてくれていたらなぁ、と少し恨むこともあった。

私の両親はその辺の進路の話に関しては完全に放任主義だったのだ。

それに漬け込んで自分の努力不足を両親のせいにしていた。


だが、病床の父から上記の言葉を言われたとき、今の自分があるのはやはり父(と母)のおかげなのだと気がついた。

子供の頃から特に努力してきた訳でもない私がなんとかまともな社会人になれたのは、大人になるまでご飯を食べさせ生活を保障し、進学に際しても無気力で将来の見込みが薄い私にさえ快く学費を出してくれたからだ。


私がいなければいくらの出費が抑えられたのだろうか。

父は私がいなければもっと他のことにお金を使って人生を楽しむこともできたはずだ。


仕事をするだけで家にほとんどいないような親は批判されることもある。

でも私からすると、子供のために家に必要なお金を入れるだけでも十分に身を削っているように感じる。


そうやって身を削って投資してもらった結果、私のような人間でも平均的な日本人よりは多少稼げるようになったが、結局その投資のリターンが父に回ることはほとんどなかった。


そのことをとても後悔している。



オードリーの若林さん(芸人)もお父さんを亡くされているようだが、あるときこんなことを言っていた。

「父が亡くなってからの方が父と会話している気がする」

昔の私がそれを聞いたら何かおかしなことを言い出したのかと思ったかもしれない。

だけど今はその気持ちが分かるし、とても面白い表現だと思う。


私の父は仕事でとても成果を残した人だった。

一般には有名人でもなんでもないが、父のことを知って訪ねてくる人は多かったようで、世界中に知り合いがいた。


私も仕事で成果を残したいという気持ちが出てきた。

そう思って頑張ってみても、今のところ思っていたほどうまくいっていない。

でも、そうやって頑張っているときにふと父が昔言っていたことを思い出したりすることで、不思議と父と会話しているような気分になることはある。


もちろん本当は亡くなっている人と会話などできるわけがない。

でも「父のように頑張ろう」と思って行動することが、父に近づける唯一の手段のように感じた。

実際には錯覚だが、結果として前向きなエネルギーになるのであれば錯覚だからと切り捨てる必要もない。


たぶん、若林さんの言葉も私と似たような感覚から発せられたのではないだろうか。


もし身近な人がなくなって辛いという人は、何か前向きなことに打ち込んでみると、気持ちを楽にするためにはむしろ有効かもしれない。



コミュ障にとっての家飲みのメリットとは

今週のお題「家で飲む」



私は他人を自分の家に呼ぶのも他人の家に行くのもあまり好きではない。

もし飲みに行くなら安い居酒屋でもなんでもいいから外に行きたい。


ただ、友人などと少人数で飲みに行く、というシチュエーションになったとき、時間はあり余っているんだけどいい加減話すことがなくなってきた、という状況になることはないだろうか。 (コミュ障以外はあまりないのだろうか・・・)


昔からの友人であれば多少無言の間が空いても気にならないかもしれないが、そこまで長い付き合いでもない場合にはどうだろう。


これはお酒を飲む場合に限らないが、こんなときは確かに家にいると便利なことがある。


テレビをつけておけばそれを見ている間は無言でも不自然ではないし、テレビの内容を元にした話もできる。

また家に置いてある何か変わったものや、共通の趣味に関するものを見つけてそれについて話したりもできる。

長い時間を過ごしても話題にはそれほど困らない。

これは家飲みのメリットではないだろうか。


話すことがないならさっさと帰ればいい、とも思うのだが、とにかく長く飲みたがる人というのも一定数いるものなのだ。

理由はあまりよく分からないが、一人の家に帰りたくないとか、逆に家族のところに帰りたくないとか、ある一定以上アルコールを飲まないと満足して寝られないとか、そんなところらしい。


他人に自分の家を教えたり、他人の家に行ったりすることは、安全性の観点からは多少リスクでもある。

ただ、もし長く飲みたがる人に付き合ってあげたいと思うのなら、家飲みも良い選択肢の一つなのかもしれない。



母「母の日にくれたお手伝い券を使うからお皿洗って」子供ワイ「疲れたから無理」

今週のお題「母の日」



母の日には遠方に住む母へプレゼントを送った。

社会人になってからは毎年何か送っているが、学生のときまではほとんど何もあげていなかった。

"ほとんど"と書いたのは、小学生のときには一応プレゼントをあげたことがあったからだ。


小学生のときのプレゼントはいわゆる「お手伝い券」というやつだった。


子供のころはプレゼントを買おうにもお金がない。

だからこの券を出せば何か一つお手伝いします、というお手伝い券を渡すのだ。

今もそういうことをする子がいるのか分からないが、当時、私の周りでは時々こういうものをあげる子がいた。


私はよく考えずについつい奮発してしまい、50枚くらいのお手伝い券をあげた。

これが失敗だった。


母の日の間だけであればいくらでもお手伝いするつもりだったのだが、母の日が終わるとだんだん面倒臭くなってきてしまった。

多分、普段からよくお手伝いをする子供であったなら何の苦もなかったのだろうが、私はそうではなかっただけでなく、ものすごく飽きっぽい子供だった。


母「お手伝い券渡すからお皿洗って」

子供ワイ「今日は疲れたから無理」


母「お手伝い券で掃除機かけて」

子供ワイ「今日は出かけるから明日でもいい?」


母「お手伝い券でお風呂掃除して」

子供ワイ「今日はお腹痛くて…(仮病)」


母に喜んでもらおうと自分から渡したお手伝い券だったが、結局このようなことを繰り返して完全に無効化してしまったのであった。



母の日は毎年5月の第2日曜日と決められている。

「ちびまるこちゃん」や「サザエさん」が放送される曜日で、大抵は母の日をテーマにした話が放送される。

子供たちが母の日にしっかりと労ったりプレゼントしたりする話を見ると、自分は本当にどうしようもない子供だったということを思い出してしまう。



会社員が資格を取ることは本当に意味ないのか〜名称独占資格が仕事で役に立って副収入まで得られた話〜



※時間がない方は太字のところだけ読んでください


「会社員が資格を取得しても意味がない」という話を聞くことがある。


私の会社には資格手当のようなものはない。

資格を持っているから評価されるとか、昇進しやすくなるとかいうこともない。


資格取得のための学習を通して得た知識は実務で役に立つかもしれないし、就職や転職のときであれば評価されることもあるかもしれない。

また、一般的に士業で独立する場合には資格が必須だし、会社員でも業務を行う上で法律上資格が必要になる場合もある。


では、それら以外で「資格そのもの」が役に立つことはないのだろうか?


役に立たないことも多いと思うが、少なくとも私の場合は資格が役に立ったことがある。

しかもその資格は決して難関資格ではなく、何かの独占業務ができるようなものでもない。(いわゆる名称独占資格)


詳細までは書けないので漠然とした話になってしまうが、ひとつの事例として私の経験を書いてみたい。



(1) やりたいことがあった


私は"ある業務"の担当者になりたいと思っていた。


考えようによっては雑用とも言える事務仕事が中心なので、私の部門ではそれを専門にする人を置くのではなく、別の仕事をしながら"ある業務"を兼務するという形になっていた。

一方、事業を進める上では避けて通れない重要な内容で、場合によっては社員の利害にも影響を与えることになるので、大抵はある程度の立場の人か、または経験や知識は豊富だが時間に余裕がある年配の人に担当させるのが常だった。


何も理由がなければ、当時の私がその業務の担当者になるということは起こりがたいことだった。


ちなみに私がなぜ上記の"ある業務"をやりたかったのか簡単に書くと、主に下の3つの理由からだった。


①当時、私は自分の携わるプロジェクトの方針に納得しておらず、方向性を変えたいと思っていたが、"ある業務"は私がやりたい戦略のキーとなる要素に関わる内容だった。

②"ある業務"をやることで、自分の経歴上プラスになることが予想できた。

③"ある業務"をやることで、自分が副収入を得られやすい状況を作れると想定できた。(しかも会社から文句を言われることもない)


(2) 資格取得の目的


元々、私は全く資格に興味がなかった。

就職したときに持っていた資格は自動車免許だけだった。


就職後に何気なくいろいろ調べていたら、"ある業務"に関わる資格があることを知った。

世の中にはその分野の専門家もいるが、私の部門で"ある業務"を担当することは半分雑用と考えられているので、それのためにわざわざ資格を取る人は少なかった。


難関資格ではないので誰からも「すごい」とは言われないだろうが、その分野の資格を持っている人がほとんどいないので、私だけが資格を持っていれば一応目立つかもしれない。

就職・転職の面接で会社に採用するかしないかの判断をされるのであれば資格の価値を厳しく評価されるとしても、"同じ会社の中で誰に仕事を割り振るか"の判断であればもっと甘くなるはずだ。

「わざわざ資格を取ってるみたいだからやる気はあるだろうし、あいつにやらせてみてもいいか。ダメだったら上司にフォローさせるか、担当を変えればいいし」と思ってもらえるかもしれない。

仮にいつまでも"ある業務"をできなかったとしても、そのために勉強したことがいつか何かの役には立つだろう。

そのように考え、資格を取ることにしたのであった。


(3) 資格取得後


元々"ある業務"を担当している人がいるので、資格を取得したからといって、即座にその人を外して私にやらせようとはならなかった。


だからといって特に気にせず、気長に過ごした。

ただ、いろいろとその分野についての意見は言うようにしていた。


あるとき、部門の組織変更があり、元々の担当者がいなくなった。

組織が分裂したので、少ない人数の中から"ある業務"の担当者を決めなくてはならなくなった。


上司が担当する可能性もあったのだが、上に書いたように雑用的な要素も多いので、おそらく自分ではやりたくなかったのだろう。

それでも通常ならもっと年配の他の人に任せるところだが、普段からその分野に興味がありそうで、役に立つかはともかく一応関連する資格も持っている私が"ある業務"を担当することになった。



上記(1)で書いた"ある業務"をやることで達成したい3つの目的のうち、今までに①(プロジェクトの方向性変更)、②(経歴としてプラスになる要素を獲得)ともある程度実現できてきたと思うし、③(副収入)については200万円程度の副収入を得られた。

まだまだ満足できる内容ではないが、望んでいる方向に少しずつ近づいているように思う。


いろいろと偶然もあったが、遡って考えると資格を持っていたことがその偶然を味方につける一つのキッカケとなったことは間違いない。


(4) 資格が役に立たないとき


「会社員が資格を取っても意味がない」という話については、正しいとも間違っているとも思う。

上記の話では期待していた以上に資格が役に立った。

たが資格を取ったのに思ったほど役に立たなかったという場合も多いだろう。


実は私ももう一つ資格を取ったことがあるが、そちらは今のところ全く役に立っていない。

その資格も一応自分なりの目的があって取得したものだったのだが、小さな目的だったので結局資格と関係なく達成できてしまっているのだ。


資格に限らず何か努力したことが将来役に立つか立たないかということについては、どうしても確率的な要素が入ってきてしまう。

それは元々分かっているので、仮に役に立たなくても特に気にしない。

まだいつか役立つのかもしれないし、一生役に立たなかったとしても勉強になったのだからそれでいいと思っている。